2007/05/31

道端に弛(たゆ)まる一輪の華。

その昇華しきった姿を背に
一歩一歩進みたる御身を憶(おも)い、重ねてみれば、
時は死滅し忘却の裡に舞い込むに至る。

矢継ぎ早に過ぎ去る記憶を留める術は、
果敢なき導(しるべ)の意図に舞い込む僅(わず)かな意思と、
滅却に染むる自虐への邂逅に他成らない。

鏡は歪狭な変形をなして、
反復を持って御身に降り掛かる。

然(しか)るに、現実は偽りの器でしか無い。

2007/05/30

初演に向けてのメモはこのノートに認(したた)めている。
小説から、雑誌から、カタログから・・・・あらゆるカットアップをここに収め記録し続ける。

2007/05/29


髪から頭皮、そして脳へと接触する得体も知れぬ物体。

昨今混同されるは「革命」と「改革」の語彙であるが、袂を分かつ決定的な故は『破壊と再構築』の解釈に他成らない。
烏滸がましくも触感出来ぬ己を現段日本社会と対比させ、尚かつ併置して準(なぞら)えた時、捉え得ぬ思惑の無限ループに陥(おちい)るのではないか。

これについては、再考と巡り合わせを求める次第である。

2007/05/28


終電後、先日と同じ居酒屋にて。

【抵抗】
ヴェーユ、ルクセンブルグ、他、「労働」を介して社会体制並びに経済論理を見つめ、捉え直してみれば所謂「抵抗」に過ぎなかった事実が否応無く浮かび上がる。

  僅(わず)かながらの希望、
  それに斯(か)かる代償。

死を持って証明したのは、結局挙げつらう事で生命維持を測る不特定多数の無機能な身体(所謂マジョリティ)の行方でしかなったのではないか。
決起しきれぬ裡(うち)に断絶された無念の果ては、現段に於いて“僅かながらの抵抗”でしかなかった事実を晒すに留まってしまうのではないか。

結果として

  マジョは無条件に右に傾むく

そういった事実に相違無く呼応してまうべきなのか。
そこに思考の導(しるべ)や視座は介入の余地がないのではないか。
また、これが無条件の裡の“条件”であり、無思考の絶対的証明の一つに当てはまるのではないか。

その傾きに嫌悪感を甚(いだ)くか、巻かれるか。

残された身体の肝は何処に据(す)えるべきか、また据えたる思考の域から脱せらるるか。

  革命意思に染むる手は、血に染まり、やがて忘却に沈む。

2007/05/27


深夜自宅にて

亡霊の侵攻→失脚
異形のモノは言葉をもがれ、叱咤、罵倒される。
現世の物質では拘束できない為、念により処置を施される(両腕を肩にまわす)。

【対極と同軸】
分割された空間にあるがイン・アウトは常に対極で映し出され、且つ同軸のものとして扱われる、また常に腋臭を残していく。つまりIN=OUTという絶対的関係を時間軸で捉え直し表象する。
(※対極する空間の出入口、内側と外側を映し出す二台のカメラを用意し、それぞれ対極する部屋に映し出す。映像とのクロス)

2007/05/26

音、そして映像の資料として

なんと嬉しい事態か、VHSですり切れるまで見続けたノイバウテンの映像が2007年4月27日にDVDになって再発していた。しかも日本語字幕付き(プレスリリース)。

調子に乗って他のDVDやCDを大量購入、4万円を超えたので少し反省しつつも代表的なものをリストアップ。

まず、写真左上から

ジューイッシュ・カルチャー(ユダヤ音楽)にスポットを当てたDVD「Sabbath In Paradise」、お気に入りのデヴィッド・クラカウアー氏も登場する、クラリネット愛好家ならずとも押さえておきたい、観ておきたい。

ノイバウテン「半分人間」サントラCD付きスペシャル版、ブリッと臭い、当たるも八卦などなど・・・主観が入りすぎる為ノーコメント(それほど好きと云う事)

ノイバウテン「リスン・ウィズ・ペイン」日本版、こちらも主観が入りすぎる為ノーコメント

ノイバウテン「リーベスリーダー」日本版、またまた主観が入りすぎる為ノーコメント

マッシブ・アタックのプロモ集(これは破格の中古で)


写真左下から


安田芙充央「シューマンズ・バー・ミュージック」From Winter Winter
タイトル同名のバーが舞台のようで、終始傍らに響く客のザワメキもソロピアノに彩りを与えている印象、こういった具体音に映えるソロも中々心地よい、チョイスされた楽曲は“ムーン・リバー”や“風と共に去りぬ”など完璧なまでに射程範囲から逸脱しているが、それが逆によいのかもしれない。日曜朝向けのBGMにはうってつけのみっけモノ的内容。

北欧のバンドtriptykの題名なし(?)アルバム、フィドラにニッケルハルパにサックスという三人が奏でる音は所謂トラッド、本来ならばサックスがアコーディオンと入れ替われは“正当”なんだと思うが、空間を手づかみする様なこの三人の演奏は瞠目に値します。

ガイ・クルセヴェクとアラン・バーンのデュオ二作目、アコーディオン二台が絡むとこうも厚みを増すものなのです。前作はアコのみでしたが、今作は意欲的にピアノやMIDI機器も導入しています、また全体的に抑揚のある曲が多く触れ幅も広がったのが印象的ではあります。十分な範囲で、且つ順当に二人の欲がぶつかっていく様は次回作にも繋がる期待をやおら抱かせる内容。

テリーライリー『The Harp of New ALBION』。「5」という数字にこだわったピアノ作品、常に5度圏で演奏されるミニマリックなピアノ。二枚組で有に100分を超えます。アルペジオが気持ちのいいトリップ感を演出しています。ちょっと値が張りますが書架ならぬCD架に収めて損なしの永久保存版。

2007/05/25


独り居酒屋で構想を膨らます。
すでに深夜3時をとうに超えてしまったようだ。


【廃人に】
それは限りなく人形に近づいていく
死せる俳優
演ずる事の無効性
演劇と云う俗性
俗性→しかし、たかが、

【冒頭の“声”の反復】
劇中に何度か挿入する
その都度演劇のトーンが変化する
主題はこれを切っ掛けに弾け飛ぶ

【己との離別、肉体からの遊離】
声が個々の人格を離れていく
※己の声が時間経過と共に、外部から照射されるようにする
録音するか、マイクで増幅させるか

2007/05/24


千駄ヶ谷駅、終電に滑り込む

【停止】

「“あの人”だから観たい」
「名のある劇団“だから”観たい」

因習的な観客の態度、保守的な姿勢、
そこに至る虚偽、または故意

観る事に対するあらゆる価値観、判断

演ずることから、あらゆる価値観の

停止・・・・・・・・。
停止・・・・・・・・。
停止・・・・・・・・。
停止・・・・・・・・。
停止・・・・・・・・。

2007/05/23


有楽町は貿易センタービル38階からの眺め。

眼下に広がる世界は、

ジオラマの様な現実味とは程遠い

明け透けな空間。

新幹線には乾電池

並木道にはセルロイド

プラスチックのサラリーマン

アクリル仕様の窓ガラス

屋上の中心点を右回りに結んでいくと皇居に刺さるのだろう。

今日も若葉が疼(うず)き出し、よしんば交歓を求め出す。

まるでアコヤとシジミのロングパレード。

2007/05/22


著者(排泄者)
 ↓
出版(思惑、金銭、有用、貢献、義務)
 ↓
書架(集合知、公的ライブラリ)
 ↓
書物(言葉のまとまり、説得材料、個知開示、主義主張)
 ↓
紙(言葉の断片、カットアップ素材)
 ↓
チャタテムシ(無干渉生物、無意識的発生)
 ↓
シミ(劣化、死産) ↓
 ↓
湿気・廃坑(懐古、和)
 ↓
金属(硬直化、鉱物、錆び)・・・・・

-------------
通奏低音

横から表るアジテーター

アシンメトリーの他者
-------------