2007/07/03

【白痴】鮎川信夫

ひとびとが足をとめている空地には
瓦礫のうえに木材が組立てられ
槌の音がこだまし
新しい建物がたちかけています
やがてキャバレー何とか
洋品店何々になるのでしょう
私はぼんやりと空を眺めます
ビルの四階には午後三時から灯りがともり
踊っている男女の影がアスファルトに落ちてきます

私は裏街を好みます
そこにはジャズがほそぼそとながれ
むかし酒場で知りあった女が
あまり関心しない生活をしています
無意味な時代がしずかに腐敗しています
ある冬の晴れた日に
私はゆっくりタバコをふかしながら
そこを通ってゆきました
私の立派な人生には
いつもそんな汚い路地があって
破れた天井の青空が
いつもいくらか明るいようです

日が暮れかかると
劇場は真黒な人を吐き出します
ふるえる電線の街の
灰いろの建物のしたを孤独な靴音が
もみあうおびただしい影をぬってゆきます
その孤独のこだまのなかには淋しさの本質がちょっぴりあります
十字路には警官が立っていて
これがほんとうの東京の街路ですが
この街のどこもかしこも
光りの痕跡が小さくなってゆくようです
つかれているのは私ばかりではありません
指輪や装身具の飾ってあるジョーウィンドウをのぞいて
うつくしく欠伸(あくび)をしている女がいます
その横顔をぬすみ見ている紳士がいます

春のころ代議士候補が
サラリーマンや労働者を相手に
よく政府の悪口を言っていた広場には
サーカスの看板がこがらしに吹かれています
街路樹の枯枝に
小鳥がとまっていることも見のがせません
サーカスのむすめの写真をながめながら
私は軽い舌うちをしました
もちろん誰にも聞えるきづかいはありません
どうやら私は今年も結婚しそこねたようです

これから私は何をしたらよいのでしょうか?
ひとびとのうしろに行列をして夕刊を買い
今日の出来事を
昨日のように読みすてましょうか?
そしてニュースが私を読みすてたら
喫茶店でコーヒーをのみ
それからあとの計画は
一杯のコーヒーをまえにして考えようと思うのです
一人の若いウェイトレスが
たまたま可愛い瞳をしていたからといって
少しばかり恥をかくようなことがなければよいのです

出典:鮎川信夫全詩集1946-1978/思潮社 (P51 白痴より)