植物といものうのは、動物と真逆の倒立を成している。
天地が逆さまに。
昆虫やその他の脊椎動物はその間を採って頭尾がやや垂直の形である。
いわゆる性器を天井に、頭を地面にというように。
2008/04/19
2007/08/20
2007/07/19
【第五幕:断章】レイン・サークル
六人の演者は順に散り、四方八方に置かれた金属パイプを叩きだす。
一人は四分で抑揚無く
一人は八分で抑揚をもって
一人は十六分で抑揚無く
一人は三分で抑揚をもって
一人はアクセントで抑揚無く
一人はランダムで抑揚をもって
一定時間後、ハーシュノイズがフェイドイン
演者1:
(傘を差し出す)
「雨が降るよ」
演者2:
(傘を受け取らず)
「私に顔はない、あるのは水晶のような、無色で透きとおる物質だ
絶対的な他者とも違う、離脱した魂の俯瞰でもない」
演者3:
(傘を受け取らず)
「所有と使用のルールが狂い、経済主体性の神話が崩れはじめた
私に顔はない、あるのはアメーバのような、分離と自滅を繰り替えず物質だ」
演者4:
(傘を受け取り)
「壁の落書きは墨で書け、インキじゃ駄目だ、インキは其処に止まらない
墨ならば永遠に止まり、警鐘を鳴らし続けてくれる」
2007/07/16
2007/07/13
2007/07/03
【白痴】鮎川信夫
ひとびとが足をとめている空地には
瓦礫のうえに木材が組立てられ
槌の音がこだまし
新しい建物がたちかけています
やがてキャバレー何とか
洋品店何々になるのでしょう
私はぼんやりと空を眺めます
ビルの四階には午後三時から灯りがともり
踊っている男女の影がアスファルトに落ちてきます
私は裏街を好みます
そこにはジャズがほそぼそとながれ
むかし酒場で知りあった女が
あまり関心しない生活をしています
無意味な時代がしずかに腐敗しています
ある冬の晴れた日に
私はゆっくりタバコをふかしながら
そこを通ってゆきました
私の立派な人生には
いつもそんな汚い路地があって
破れた天井の青空が
いつもいくらか明るいようです
日が暮れかかると
劇場は真黒な人を吐き出します
ふるえる電線の街の
灰いろの建物のしたを孤独な靴音が
もみあうおびただしい影をぬってゆきます
その孤独のこだまのなかには淋しさの本質がちょっぴりあります
十字路には警官が立っていて
これがほんとうの東京の街路ですが
この街のどこもかしこも
光りの痕跡が小さくなってゆくようです
つかれているのは私ばかりではありません
指輪や装身具の飾ってあるジョーウィンドウをのぞいて
うつくしく欠伸(あくび)をしている女がいます
その横顔をぬすみ見ている紳士がいます
春のころ代議士候補が
サラリーマンや労働者を相手に
よく政府の悪口を言っていた広場には
サーカスの看板がこがらしに吹かれています
街路樹の枯枝に
小鳥がとまっていることも見のがせません
サーカスのむすめの写真をながめながら
私は軽い舌うちをしました
もちろん誰にも聞えるきづかいはありません
どうやら私は今年も結婚しそこねたようです
これから私は何をしたらよいのでしょうか?
ひとびとのうしろに行列をして夕刊を買い
今日の出来事を
昨日のように読みすてましょうか?
そしてニュースが私を読みすてたら
喫茶店でコーヒーをのみ
それからあとの計画は
一杯のコーヒーをまえにして考えようと思うのです
一人の若いウェイトレスが
たまたま可愛い瞳をしていたからといって
少しばかり恥をかくようなことがなければよいのです
出典:鮎川信夫全詩集1946-1978/思潮社 (P51 白痴より)
2007/06/30
なんとなく借りて観た映画「Mountain Patrol:kekexili(邦題:ココシリ)」終半の一場面。
四方3メートル程の無骨な空間に横たわる男、そこに寄り添う娘。無言の語りを投げかける娘。
しばらくして、死せる男は赤装束の3人に抱えられ、見えざる苦悩を剥ぎ落とすかのごとく拭われる。
娘の姿はすでにない。
2007/06/25
6月中旬からまた一気に仕事量が増し意識は常に“そちら側”に持っていかれてしまう。両立は誠に持って難しいと感じる毎日である。
1910年、シーレ二十歳、新芸術集団に於ける展示の成功により、パトロンも見つかり転換期を迎えた頃の作品「Mother and Child」。
Egon Schiele (1890-1918)
Mother and Child, 1910
Watercolor, gouache, and pencil on paper
Private collection, New York
この写しの前に腰を据え、対の姿勢のまま“脊髄”に意識を集中させ沈下させる。そのまましばし妄想または夢想に近い状態に浸らんと画策してみる。
原画はNYメトロポリタン美術館の側にある小美術館、オーストリアやドイツ表現主義、バウハウス関連のコレクションで有名なノイエギャラリー所蔵。
→ NEUE GALERIE / map
2007/06/20
2007/06/17
2007/06/06
プロジェクタ、あるいは一点から照射される光で陰影を流し時間軸から表象までを表す方法。逆に目つぶし(観客正面からの照明)で陰を延ばす方法はどうか。客席からの視点では俳優が消え、足下の陰だけが残るのではないか。
四方意外に仕切りのない空間に実質的物質を抄出させることで「記憶」の片鱗を各々視点で想起させることができるのでは?
具体的な絵はこれらの記録の底から想着し、膨らましてみようと思う。
2007/06/05
戯曲は[Mac OS X版 iText Express 2.5]を使って書き進めている。以前は[Mac版 LightWayText 4.1.6]を使用していたのだが、ユニバーサルバイナリ化されていない為の選択である。
そんな折、MacBookが不調を訴えてきた為、二度目のアップルセンター行きとなった。
購入から一年で既にメモ帳と化している漆黒ボディの弱気な青年だが、今一度元気な姿を見せて貰いたいものである。
帰還するまでは埃にまみれたPowerBookG4で作業することになりそうだ。
2007/06/04
2007/06/03
あんぱんまんに対する憧れのまなざしを捨てきれないまま残してみるメモ。
作家自身が経験した事を原材料にその理性化、整合化に向かう演劇形式の飽和性に対する疑念 / 演劇は絶えず個人の思惑を打ち破って、個では決してたどり着くことの出来ない領域に集団の力で我々を導びき、運び込んでくれるのではないか / 観客は劇場の中では必ずと行っていいほど作品の「意味」を求めてしまう。また、そのことからおいそれと自由になれない習性を身につけてしまっている / 極小化された情報量の中に最大限の行為を表現する。つまり圧縮、一つ一つの濃度を高める / 二つの空間、二つの「あいだ」に立ち、その境界線上で眺め続ける / 外国文化への一方的な礼賛と作家への崇拝という態度を排し、徹底してマテリアルとして「使う」ことである / 「言葉」vs「肉体」という二元論から、逆に何ものにも還元されない状態を見据える / テクストの読み方には「知」の特権化があり「正解」を求める、ではその「正解」は何処にあるか。また、権化を認識した観客の向かう先は何処か。
→ 横浜アンパンマンこどもミュージアム
2007/06/02
書架を掘り起こし、3年程前、新刊で読んだリチャード・モラン著の書籍に僅かなヒントを見いだす・・・しかし史実に合わない・・・。
【結論から初まる】
暗転/開幕
↓
暗闇(30秒)
※スモークが揺蕩(たゆた)う
※足下のみに照明が薄明かるく灯っている
↓
反戦歌「リリー・マルレーン」が遠くのラジオからで流れている
候補:German
・Willy Fritsch 678KB ~1939
・Heyn Quartett 352KB
・6.Panzergrenadierdivision 272KB
・Lale Andersen 732KB 1939
・Lale Andersen 680KB
・Lale Andersen 242KB tri-lingual
・Marlene Dietrich 694KB
・Mimi Thoma 791KB Grammophon
↓
電気椅子に座る男(スポット、瞬間的に)(3分)
1.アウシュヴィッツではチクロンBは使用さていない
2.極力写実的描写は避ける
3.エジソン/ウェスティングハウスから
米国的イメージなってしまわないか?=再考
4.いや、そもそも電気椅子は史実的におかしい・・・・駄目か。
↓
回想的台詞(録音)(3分)
↓
一定のリズムを持った機械音のフェードイン(2分)
↓
演奏スタート