2007/06/30

なんとなく借りて観た映画「Mountain Patrol:kekexili(邦題:ココシリ)」終半の一場面。
四方3メートル程の無骨な空間に横たわる男、そこに寄り添う娘。無言の語りを投げかける娘。
しばらくして、死せる男は赤装束の3人に抱えられ、見えざる苦悩を剥ぎ落とすかのごとく拭われる。
娘の姿はすでにない。

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2007/06/25

6月中旬からまた一気に仕事量が増し意識は常に“そちら側”に持っていかれてしまう。両立は誠に持って難しいと感じる毎日である。

1910年、シーレ二十歳、新芸術集団に於ける展示の成功により、パトロンも見つかり転換期を迎えた頃の作品「Mother and Child」。

Egon Schiele (1890-1918)
 Mother and Child, 1910
 Watercolor, gouache, and pencil on paper
 Private collection, New York

この写しの前に腰を据え、対の姿勢のまま“脊髄”に意識を集中させ沈下させる。そのまましばし妄想または夢想に近い状態に浸らんと画策してみる。

原画はNYメトロポリタン美術館の側にある小美術館、オーストリアやドイツ表現主義、バウハウス関連のコレクションで有名なノイエギャラリー所蔵。
NEUE GALERIE / map

2007/06/20

神田の古本屋で以下の7冊を買う。資料になるものもあれば、何となく“また”買ってしまったものも・・・。

「家畜人ヤプー」 沼正三 著
「詩と権力のあいだ」 宇野邦一 著
「ドグラ・マグラ1」 夢野久作 著
「ドグラ・マグラ2」 夢野久作 著
「猫と庄造と二人のおんな」 谷崎潤一郎 著
「鈴木忠志演劇論集 内角の和1」 鈴木忠志 著
「鈴木忠志演劇論集 内角の和2」 鈴木忠志 著
ほか

ヤプーは文庫本で半分程まで読み、ドグラ・マグラは夢野久作全集で読んでいたものの、また買ってしまう・・・。

2007/06/17


ラリック美術館へ向かう。
1920〜30年代に“ブルジョワジーの夢”と謳われた世界の一端が広がる。

ラリック美術館

2007/06/07


導き寄る術を求め、神田古書店街を徘徊。数冊の本を手に地下鉄へ戻る。

2007/06/06

プロジェクタ、あるいは一点から照射される光で陰影を流し時間軸から表象までを表す方法。逆に目つぶし(観客正面からの照明)で陰を延ばす方法はどうか。客席からの視点では俳優が消え、足下の陰だけが残るのではないか。

四方意外に仕切りのない空間に実質的物質を抄出させることで「記憶」の片鱗を各々視点で想起させることができるのでは?

具体的な絵はこれらの記録の底から想着し、膨らましてみようと思う。

2007/06/05

戯曲は[Mac OS X版 iText Express 2.5]を使って書き進めている。以前は[Mac版 LightWayText 4.1.6]を使用していたのだが、ユニバーサルバイナリ化されていない為の選択である。

そんな折、MacBookが不調を訴えてきた為、二度目のアップルセンター行きとなった。

購入から一年で既にメモ帳と化している漆黒ボディの弱気な青年だが、今一度元気な姿を見せて貰いたいものである。

帰還するまでは埃にまみれたPowerBookG4で作業することになりそうだ。

2007/06/04


神宮前の事務所にて。

いつもは注文後10分強で届くスピード感がたまらない紫金飯店 青山店で出前をお願いしているのだが、今日の別の寿司屋で出前をとることにした。

2007/06/03

あんぱんまんに対する憧れのまなざしを捨てきれないまま残してみるメモ。

作家自身が経験した事を原材料にその理性化、整合化に向かう演劇形式の飽和性に対する疑念 / 演劇は絶えず個人の思惑を打ち破って、個では決してたどり着くことの出来ない領域に集団の力で我々を導びき、運び込んでくれるのではないか / 観客は劇場の中では必ずと行っていいほど作品の「意味」を求めてしまう。また、そのことからおいそれと自由になれない習性を身につけてしまっている / 極小化された情報量の中に最大限の行為を表現する。つまり圧縮、一つ一つの濃度を高める / 二つの空間、二つの「あいだ」に立ち、その境界線上で眺め続ける / 外国文化への一方的な礼賛と作家への崇拝という態度を排し、徹底してマテリアルとして「使う」ことである / 「言葉」vs「肉体」という二元論から、逆に何ものにも還元されない状態を見据える / テクストの読み方には「知」の特権化があり「正解」を求める、ではその「正解」は何処にあるか。また、権化を認識した観客の向かう先は何処か。

横浜アンパンマンこどもミュージアム

2007/06/02

書架を掘り起こし、3年程前、新刊で読んだリチャード・モラン著の書籍に僅かなヒントを見いだす・・・しかし史実に合わない・・・。

【結論から初まる】
暗転/開幕
 ↓
暗闇(30秒)
 ※スモークが揺蕩(たゆた)う
 ※足下のみに照明が薄明かるく灯っている
 ↓
反戦歌「リリー・マルレーン」が遠くのラジオからで流れている
 候補:German
 ・Willy Fritsch 678KB ~1939
 ・Heyn Quartett 352KB
 ・6.Panzergrenadierdivision 272KB
 ・Lale Andersen 732KB 1939
 ・Lale Andersen 680KB
 ・Lale Andersen 242KB tri-lingual
 ・Marlene Dietrich 694KB
 ・Mimi Thoma 791KB Grammophon
 ↓
電気椅子に座る男(スポット、瞬間的に)(3分)
 1.アウシュヴィッツではチクロンBは使用さていない
 2.極力写実的描写は避ける
 3.エジソン/ウェスティングハウスから
  米国的イメージなってしまわないか?=再考
 4.いや、そもそも電気椅子は史実的におかしい・・・・駄目か。
 ↓
回想的台詞(録音)(3分)
 ↓
一定のリズムを持った機械音のフェードイン(2分)
 ↓
演奏スタート
 

2007/06/01

易々と書物に揉まれているが故に、
思惑をを見失っている御身を自覚しなければならない。

そこに潜む大いなる溝は自覚しきれるものでは無いし、ましてや歓談が閑談に変わる前にこそ気付く事(築く事)があるはずではないか。

得てして世論が全てであり、疑う意義すら剥ぎ取られ、崇高なる“証言”にコジツけを見いだし、納得せる証材を探る。

所詮、迎合(げいごう)と捉えれば易いが、結論は見えず終いのまま思考の渦に巻き込まれ、飲み込まれる事でしか図れないものが有るかもしれない。