6月中旬からまた一気に仕事量が増し意識は常に“そちら側”に持っていかれてしまう。両立は誠に持って難しいと感じる毎日である。
1910年、シーレ二十歳、新芸術集団に於ける展示の成功により、パトロンも見つかり転換期を迎えた頃の作品「Mother and Child」。
Egon Schiele (1890-1918)
Mother and Child, 1910
Watercolor, gouache, and pencil on paper
Private collection, New York
この写しの前に腰を据え、対の姿勢のまま“脊髄”に意識を集中させ沈下させる。そのまましばし妄想または夢想に近い状態に浸らんと画策してみる。
原画はNYメトロポリタン美術館の側にある小美術館、オーストリアやドイツ表現主義、バウハウス関連のコレクションで有名なノイエギャラリー所蔵。
→ NEUE GALERIE / map
2007/06/25
2007/06/20
2007/06/17
2007/06/06
プロジェクタ、あるいは一点から照射される光で陰影を流し時間軸から表象までを表す方法。逆に目つぶし(観客正面からの照明)で陰を延ばす方法はどうか。客席からの視点では俳優が消え、足下の陰だけが残るのではないか。
四方意外に仕切りのない空間に実質的物質を抄出させることで「記憶」の片鱗を各々視点で想起させることができるのでは?
具体的な絵はこれらの記録の底から想着し、膨らましてみようと思う。
2007/06/05
戯曲は[Mac OS X版 iText Express 2.5]を使って書き進めている。以前は[Mac版 LightWayText 4.1.6]を使用していたのだが、ユニバーサルバイナリ化されていない為の選択である。
そんな折、MacBookが不調を訴えてきた為、二度目のアップルセンター行きとなった。
購入から一年で既にメモ帳と化している漆黒ボディの弱気な青年だが、今一度元気な姿を見せて貰いたいものである。
帰還するまでは埃にまみれたPowerBookG4で作業することになりそうだ。
2007/06/04
2007/06/03
あんぱんまんに対する憧れのまなざしを捨てきれないまま残してみるメモ。
作家自身が経験した事を原材料にその理性化、整合化に向かう演劇形式の飽和性に対する疑念 / 演劇は絶えず個人の思惑を打ち破って、個では決してたどり着くことの出来ない領域に集団の力で我々を導びき、運び込んでくれるのではないか / 観客は劇場の中では必ずと行っていいほど作品の「意味」を求めてしまう。また、そのことからおいそれと自由になれない習性を身につけてしまっている / 極小化された情報量の中に最大限の行為を表現する。つまり圧縮、一つ一つの濃度を高める / 二つの空間、二つの「あいだ」に立ち、その境界線上で眺め続ける / 外国文化への一方的な礼賛と作家への崇拝という態度を排し、徹底してマテリアルとして「使う」ことである / 「言葉」vs「肉体」という二元論から、逆に何ものにも還元されない状態を見据える / テクストの読み方には「知」の特権化があり「正解」を求める、ではその「正解」は何処にあるか。また、権化を認識した観客の向かう先は何処か。
→ 横浜アンパンマンこどもミュージアム
2007/06/02
書架を掘り起こし、3年程前、新刊で読んだリチャード・モラン著の書籍に僅かなヒントを見いだす・・・しかし史実に合わない・・・。
【結論から初まる】
暗転/開幕
↓
暗闇(30秒)
※スモークが揺蕩(たゆた)う
※足下のみに照明が薄明かるく灯っている
↓
反戦歌「リリー・マルレーン」が遠くのラジオからで流れている
候補:German
・Willy Fritsch 678KB ~1939
・Heyn Quartett 352KB
・6.Panzergrenadierdivision 272KB
・Lale Andersen 732KB 1939
・Lale Andersen 680KB
・Lale Andersen 242KB tri-lingual
・Marlene Dietrich 694KB
・Mimi Thoma 791KB Grammophon
↓
電気椅子に座る男(スポット、瞬間的に)(3分)
1.アウシュヴィッツではチクロンBは使用さていない
2.極力写実的描写は避ける
3.エジソン/ウェスティングハウスから
米国的イメージなってしまわないか?=再考
4.いや、そもそも電気椅子は史実的におかしい・・・・駄目か。
↓
回想的台詞(録音)(3分)
↓
一定のリズムを持った機械音のフェードイン(2分)
↓
演奏スタート
2007/06/01
2007/05/31
2007/05/29
2007/05/28

終電後、先日と同じ居酒屋にて。
【抵抗】
ヴェーユ、ルクセンブルグ、他、「労働」を介して社会体制並びに経済論理を見つめ、捉え直してみれば所謂「抵抗」に過ぎなかった事実が否応無く浮かび上がる。
僅(わず)かながらの希望、
それに斯(か)かる代償。
死を持って証明したのは、結局挙げつらう事で生命維持を測る不特定多数の無機能な身体(所謂マジョリティ)の行方でしかなったのではないか。
決起しきれぬ裡(うち)に断絶された無念の果ては、現段に於いて“僅かながらの抵抗”でしかなかった事実を晒すに留まってしまうのではないか。
結果として
マジョは無条件に右に傾むく
そういった事実に相違無く呼応してまうべきなのか。
そこに思考の導(しるべ)や視座は介入の余地がないのではないか。
また、これが無条件の裡の“条件”であり、無思考の絶対的証明の一つに当てはまるのではないか。
その傾きに嫌悪感を甚(いだ)くか、巻かれるか。
残された身体の肝は何処に据(す)えるべきか、また据えたる思考の域から脱せらるるか。
革命意思に染むる手は、血に染まり、やがて忘却に沈む。
2007/05/27
2007/05/26
音、そして映像の資料として
なんと嬉しい事態か、VHSですり切れるまで見続けたノイバウテンの映像が2007年4月27日にDVDになって再発していた。しかも日本語字幕付き(プレスリリース)。
調子に乗って他のDVDやCDを大量購入、4万円を超えたので少し反省しつつも代表的なものをリストアップ。
まず、写真左上から
ジューイッシュ・カルチャー(ユダヤ音楽)にスポットを当てたDVD「Sabbath In Paradise」、お気に入りのデヴィッド・クラカウアー氏も登場する、クラリネット愛好家ならずとも押さえておきたい、観ておきたい。
ノイバウテン「半分人間」サントラCD付きスペシャル版、ブリッと臭い、当たるも八卦などなど・・・主観が入りすぎる為ノーコメント(それほど好きと云う事)
ノイバウテン「リスン・ウィズ・ペイン」日本版、こちらも主観が入りすぎる為ノーコメント
ノイバウテン「リーベスリーダー」日本版、またまた主観が入りすぎる為ノーコメント
マッシブ・アタックのプロモ集(これは破格の中古で)
写真左下から
安田芙充央「シューマンズ・バー・ミュージック」From Winter Winter
タイトル同名のバーが舞台のようで、終始傍らに響く客のザワメキもソロピアノに彩りを与えている印象、こういった具体音に映えるソロも中々心地よい、チョイスされた楽曲は“ムーン・リバー”や“風と共に去りぬ”など完璧なまでに射程範囲から逸脱しているが、それが逆によいのかもしれない。日曜朝向けのBGMにはうってつけのみっけモノ的内容。
北欧のバンドtriptykの題名なし(?)アルバム、フィドラにニッケルハルパにサックスという三人が奏でる音は所謂トラッド、本来ならばサックスがアコーディオンと入れ替われは“正当”なんだと思うが、空間を手づかみする様なこの三人の演奏は瞠目に値します。
ガイ・クルセヴェクとアラン・バーンのデュオ二作目、アコーディオン二台が絡むとこうも厚みを増すものなのです。前作はアコのみでしたが、今作は意欲的にピアノやMIDI機器も導入しています、また全体的に抑揚のある曲が多く触れ幅も広がったのが印象的ではあります。十分な範囲で、且つ順当に二人の欲がぶつかっていく様は次回作にも繋がる期待をやおら抱かせる内容。
テリーライリー『The Harp of New ALBION』。「5」という数字にこだわったピアノ作品、常に5度圏で演奏されるミニマリックなピアノ。二枚組で有に100分を超えます。アルペジオが気持ちのいいトリップ感を演出しています。ちょっと値が張りますが書架ならぬCD架に収めて損なしの永久保存版。












