2007/05/28


終電後、先日と同じ居酒屋にて。

【抵抗】
ヴェーユ、ルクセンブルグ、他、「労働」を介して社会体制並びに経済論理を見つめ、捉え直してみれば所謂「抵抗」に過ぎなかった事実が否応無く浮かび上がる。

  僅(わず)かながらの希望、
  それに斯(か)かる代償。

死を持って証明したのは、結局挙げつらう事で生命維持を測る不特定多数の無機能な身体(所謂マジョリティ)の行方でしかなったのではないか。
決起しきれぬ裡(うち)に断絶された無念の果ては、現段に於いて“僅かながらの抵抗”でしかなかった事実を晒すに留まってしまうのではないか。

結果として

  マジョは無条件に右に傾むく

そういった事実に相違無く呼応してまうべきなのか。
そこに思考の導(しるべ)や視座は介入の余地がないのではないか。
また、これが無条件の裡の“条件”であり、無思考の絶対的証明の一つに当てはまるのではないか。

その傾きに嫌悪感を甚(いだ)くか、巻かれるか。

残された身体の肝は何処に据(す)えるべきか、また据えたる思考の域から脱せらるるか。

  革命意思に染むる手は、血に染まり、やがて忘却に沈む。